江戸無血開城の立役者である山岡鉄舟は剣の修行と同時に禅の修行に励んだことは有名です。実父の教えもあったためです。
37歳からは三島の龍択寺の星定和尚のもとに参禅に通います。毎週東京での仕事を終えたのちに夜を徹して徒歩で通います。往復すると今の整備された自動車道でも300㎞くらいあります。しかも夜盗のいた険しい箱根を越える厳しい道のりです。
ある日参禅の帰り道箱根の山で一息ついていた時、山岡鉄舟は悟りを開きます。星定和尚は山岡が帰り道に悟りを開き報告をするために寺に戻って来ることを予見していましたが、その通りになります。山岡は、この時の心境を表すのちに公案ともなる「晴れて良し、曇りても良し富士の山、元の姿は変わらざりけり」の歌を残します。
見性を認められますが、山岡自身は悟りを開いたとは思いませんでした。それは浅利又七郎の立ち会った時の剣がずっと脳裏から消えなかったからです。見性してから10年ほど経って座禅をしているとき突然大吾して浅利の剣が消え去ることを感じました。再度浅利と立ち合いを求めたときに、剣を抜く前に浅利は平伏して負けを認めたと言います。
山岡鉄舟は「剣禅一如」と言います。剣の道と悟りを目指す禅の道はなぜ関連するのでしょうか?
武術も禅も経験も知識も少ない私ですが、感じることをおいおい書いていきたいと思います。