禅では「不立文字」と言って言葉や文字によって悟りの道は伝えられないと言います。文字や理屈を超えたところに本質はあるということだと思います。それでも言葉や文字を伝達の手段として使わざるを得ません。
禅宗(臨済宗)の公案は文字ですが、公案は理屈に合わないことに対する答えを問い詰められます。理屈の脳を破壊するために用いられるように見えます。有名な例をあげれば、「隻手音声を聞く」とは何かと問いかけられます。両手を打ち合わせれば音が出て聞くことはできますが、片手でたたいた音を聞くとは? と問いです。
弟子の見性(悟りを開くこと)の助けとして師と弟子は向かい合って問答をします。
問答は言葉を用いていますが、剣の切り合いにも似た魂をかけた本気のやり取りによって、弟子は追い込まれ、思考は停止して、その極限として突然心身が突然大きく変化することがあります。それが悟りと呼ばれる状態です。
自分の存在が周りと完全に溶け込み一体化するなどの現象が現れます。何かが理解できたというものではありません。
先人は「無」とか「愛」とかの一言で本質を伝えようとしました。伝える側と受け取る側のレベルが一致していないと文字や言葉で本質は伝えられません。文字や言葉だけでは本質の周辺を探りながらぐるぐる回っているだけです。
何年か前に、大会の演武で130Kgの巨漢を赤子のようにころころと崩し終えた後、館長は解説をされましたが、「空手は愛です。」と言われました。道場生はあっけにとられました。私の内心何を言われるのかとびっくりしました。
その時は真義館も組手の稽古が主体でした。武術空手は極く一部で始まったばかりでした。多くの人にとって「愛」は組手と真反対に近い存在でした。特に男性にとってはしっくりこない、落ち着かない言葉です。
今なら館長の言葉は大事な本質を伝えようとしたことが理解できます。「愛」も概念ではなく、体感であり、身体の周りの雰囲気、空間ともいえると思います。
このブログも言葉という無力な手段で、なおかつ私の未熟さもあり、手探りであらぬ場所をつついている感じで綴っています。